父の死

2019年11月11日

あれから1年、父の命日、当日を振り返る

父の命日。あれから1年がたった。あの日は朝から家の近くをウォーキング、家の購入の抽選にもはずれて、次はどうしようかといろいろと物件を探していた時期だった。戸塚に行ったり、藤沢を歩いたり、近所の辻堂で探していたりと場所はさまざま、あの日は辻堂だった。家に戻ったのが15時頃、そんな折りに母親からの電話だった。父が危篤状態になったとのこと。突然の知らせにかなりびっくりした。とにかく、すぐに荷物をまとめて新幹線に飛び乗り、大阪に向かう。ちょうど名古屋に到着する頃、もう一度母親から電話があった。18時くらいだったか。父が亡くなったとのこと。これもまた突然。新大阪についた頃にはもう真っ暗になっていて、そこからタクシーで、箕面の有料トンネルを抜けて、箕面新町近くにある、箕面病院に。数日前にも池田病院から転院でやってきたばかりなのに、たった二度目の訪問で亡くなってしまうとは思ってもみなかった。人の命ははかないのだということを改めて痛感する。その後、葬儀屋に連絡して、自宅に父を連れてかえってもらう段取りを。簡単な明日以降の段取りとかの打ち合わせを葬儀屋とやってその日は終了。応接間に父の亡骸を運び、祭壇が準備されるのだが、一気に部屋の様子も変わるのと、やはりなかなか現実を受け入れられないこともあって精神的に覚醒状態。寝ようにもなかなか寝付けず、結局眠れずに夜を明かした記憶がある。そんなちょうど一年前の日、一生忘れることのない一日になるんだろうなぁと思った。

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2019年11月04日

父の一周忌を無事に終えました

早いもので父の一周忌を執り行いました。あれから1年。あっという間に過ぎ去ったような気がしますね。父親の死というのが自分にとってどういうものなのかなんて、一生に一度しか経験しないことなので、前もって知る由もなく、ある意味、ある日突然訪れる悲劇です。入院して容体が悪くなるたびに少しずつ心の準備はできても、いざ、本当にこの世から居なくなったのだというのを現実として突きつけられるとそれはそれで、ものすごい衝撃なのだというのがよくわかりました。いろいろな思い出もめぐるし、突然、無意識に悲しくなったりするという普段では感じることのない感覚が襲ってくるのが、近親者の死を受け入れるということなんでしょうかね。
まぁ、それでもこの1年、なんとか乗り切れて無事に一周忌を迎えることができて一安心。去年のような感覚を最近感じることはなくなり、年を重ねるごとに和らいでいくのでしょうか。とにかく一年間、残された我々が健康に過ごせたことに感謝して、また、これからも天国で見守っていてほしいと切に願いました。


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2019年05月02日

令和の最初の五月晴れに父の納骨を。

令和二日目。本来であれば初日の1日に父の納骨をする予定でしたが、あいにくの天候のため、本日に延期。昭和の一桁に生まれ、平成の最後の秋まで生き抜いた父が、新しい時代の令和の初日にお墓に旅立ってもらうという段取りを考えていた次第でした。とはいえ、延期して大正解と思われるほどの好天に恵まれ、すばらしい五月晴れのもと、納骨することができました。感謝、感謝です。父もきっと喜んでいることでしょう。お骨が仏壇からなくなって少しさみしくなる気もしますが、やはり本来の場所にいてもらうのが一番いいだろうし、土に帰るという考えのもと、ちょうどよいころ合いにお墓に入ってもらえたかと思います。
で、今回一番助かったのは納骨のサポートサービスをお願いしたこと。本来はお寺にお願いすればいいのですが、本来は石屋さんのお仕事らしく、お寺さんも墓地の管轄とは違うところにお願いしたため、話が少しややこしくなり、本当に大丈夫かなぁと思っていたのですが、必要なものをすべて取り揃えてくれていて、単に墓石をどけて納骨を支援してくれるだけではなく、至れり尽くせりのサービスでした。こういったサービスがネットで探してすぐに申し込めるというのも平成に始まった新たなサービス。令和になってますます便利になっていくのでしょうか。時代に乗り遅れないように生きていきたいものです。なにはともあれ、納骨が終わってひと段落の一日でした。

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2019年04月29日

お墓に玉砂利をまいて、準備完了

平成最後の昭和の日にJR大正駅で明治のR-1を飲むというのがネットではやっているようで、Twitterでは慶応卒のエドはるみさんがやればいいのでは?とあった。なるほど、ただ慶応まで行ったならその先はと調べてみたら元治という元号だった。これだったらもとはるという名前の人もいるでしょう。(*^-^*)
さて、改元の日は父の納骨の予定日。それに備えるために、お墓で玉砂利が少なくなってきたので、それを埋めるための作業をば。コーナンに売っているらしいという情報を聞きつけて、まずは手前の平野にあるコーナンに行ってみたけれど、砂利はあれど、角ばったものばかり、丸いものがなかった。なので、今度は多田のコーナンに行ってみると、ちゃんと玉砂利という名前で売られていました。15kgで2分、3分、4分と3種類の分類があって、まぁ大きさの違いですが、合いそうなのは3分。とりあえず、一袋試しに買って、墓場に直行。糸を切れば開けられますよと言われたので、やってみたら苦戦しながらもなんとか開封。片隅から少しずつばらまいていくのだが、これが重くてなかなか手間取り、汗だくに。それでも20分くらいですべて巻き終わってなんとかきれいに仕上がりました。お願いしていた霊標も出来上がっていて、あとは納骨の日が晴れることを祈るのみ。豊能町の天気予報では、今現在は曇りとなっていて微妙なところ。明日の朝起きて、一日で決行するかを決める予定です。

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2019年02月18日

名義変更を一気にやってみた

父親の百箇日で帰省。無事法要が終わりました。四十九日からほぼ倍の日数を重ねた本日。あっという間に時間が過ぎたようにも思われます。次はお彼岸に納骨、初盆があって一周忌となるようですね。まだまだしばらくはいろいろとあって大変ですが、母にとっては逆にその方がいいのかもしれません。 さて、そんな法要の折り、いろいろと名義変更をやり始めました。手始めにガスの名義変更。これは日曜日でしたが、電話で受け付けてくれました。その後に引き落とし口座の変更をしようと、ネットからやってみたのですが、何度やってもダメ。これはきっとお休みの日にやっているから銀行側が受け付けていないのだろうと想い、平日の本日にやってみたが、やっぱりダメ。なんでだろうと、ふと再度、ステップごとに確実に画面をみながら進んでいくと、口座番号を入れるべきところにキャッシュカードの暗証番号を入れてるではないですか。これはダメですわ。でもまぁ、このてのユーザの入力ミスはよくありがち。せめて、前者の7桁と後者の4桁というルールがある中で、それと違う数字の桁数を入れたら次の画面に遷移しないようにしてくれればいいものを。最後の最後でエラーが出るというなんとも不親切なシステムの作りになっている。ユーザ想いではないですな。まぁ、とにかく、無事完了。同様に、関西電力は受付が平日のみでしたが、名義変更は電話で、口座はネットで完了。NHKも同様でした。ただ、一番やっかいだったのは、ケイオプティコムという関西電力系のプロバイダ。なんでも譲渡という処理をしなければいけないようで、戸籍の除票とか死亡診断書がいるとのこと。なんてこったい。今のご時世にそぐわない不便ぶりですね。いやぁ、まぁやらざるを得ないので仕方ないですが、面倒っちいなぁ。

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2019年01月03日

我が家の家紋発見?

父の遺品を整理していたら何やら家紋のついた風呂敷が出てきたそうだ。我が家の家紋はずっと五三の桐だと思っていたのだが、見たことのない文様が風呂敷に記載されている。ネットで調べると、家紋が山ほど出てくる。200〜300種類で5000個以上の家紋があるとする情報から、2018年現在で20000以上あるというサイトもあり。いずれにせよ、とんでもない家紋の数があるということは確か。確かに、五三の桐ですら、外に丸があったり、なかったりとこれだけでも数えきれないほどの種類が。てっきり、五三、五七、葵、とあっても20種類くらいだろと思っていたらとんでもない数でした。そんな途方もない数の中から図形を探すのは至難の業ではあったが、根気よく探すとたどりついた。この家紋はどうやら、「離れ剣片喰(はなれけんかたばみ)」もしくは「総陰の剣片喰(そういんのけんかたばみ)」のいずれかだろうということが分かった。片喰という植物の葉の形の間に剣がかたどられた図形になっている。武家に愛されたとか、長曾我部や宇喜多が使っていたという説が記載されている解説あり。はたして我が家の家紋はこれが正解なのでしょうか?もはや知るのは亡き父のみ。2019-01-01 13.13.57

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2018年12月30日

祭壇も片付いてすっきり

四十九日の法要が終わったので応接間の祭壇を片付けるという大仕事がひとつ残り。葬儀屋さんに連絡したらすぐに取りに行きますとのこと。さすがにすぐに来られても準備がまったくできていないので翌日にしてもらったのだが、てっきり年末年始のお休みでもう営業はしていないのかと思ったが、確かに葬儀屋さんがそんなお休みをとるわけもなく、昨今の元旦お休みのコンビニ以上にお休みがないのだということを実感した。で片付けに来てもらって応接間から仏壇の前に飾りなどを移動。花とか、お供えとか、いっぱい量があって大変だったが、なんとか片付いてすっきりとできました。これでなんとかひと段落、ゆっくりと年越しの準備ができそう。年の瀬せまって、大晦日ならぬ晦日ですが、夜は幼馴染との同窓会で飲み会に。2018年もいろいろとありましたが、無事に年越しができそうです。

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2018年12月29日

父の四十九日は無事終了

父の四十九日の法要。妙見口の西方寺さんにお願いして、お経をあげてもらう。告別式からずっとお世話になっていて、父とは生前にあったことはないそうなのだが、まじめな方とお見受けしましたと父のことをほめてくれる。いつもの七日ごとの法要よりも少し長めのお経で1時間ほど時間を要して、無事に終了。本当は四十九日で納骨というのが一般的にのようだが、この寒いさなか、お墓まで行って、そこで納骨というのもつらいので、時期をずらして次のゴールデンウィークあたりに実施することにした。今回は応接間に設置した祭壇から仏壇の方にお引越しをしてもらうという程度。その後に法事の会席ということで、近くの料亭で食事会を。すべて滞りなくここまでこれたことに感謝、感謝です。


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2018年12月15日

五七日の法要終わる

五七日の法要のため大阪の実家に帰省。無事に終わってなによりだ。実家はやはり大阪の北海道と言われるだけあって、非常に寒い。最高気温が10度行かないくらいの気温になっている。ただ、ヒートテックを着ているとそこまで底冷えすることもなく、まぁ、耐えられる感じ。ここ数日の忘年会で食べ過ぎているので少し運動しなければやばいのだが、実家だと出かけることもなくとなりがち。法事が終わったあと少し散歩に出ることにした。鼓滝の駅から最寄りのダイエーの後継としてできたイオンモールに100円均一があって、ちょうど買わなければいけないものがあったので出かけたのだが、さすがに鼓滝からあるいてというのでは散歩にもならないので、平野の駅から歩いていくことにした。平野の駅の目の前に共立温泉病院というのがあって、なんで温泉なのだろうかと不思議に思っていたのだが、その謎が解けた。何でも平野のあたりは江戸時代に温泉場として栄えたらしく、20軒ほどの温泉宿があったらしい。ただ、家事によって焼失し、そのままになってしまったとのこと。一時は有馬・一庫とならぶ摂津の三大温泉だったとのことで、初めて知ってびっくりだ。明治時代になって有名な炭酸泉で三ツ矢サイダーというのは有名だが、まさか温泉があったとはね。まぁ、有馬も炭酸泉でタンサンせんべいってのがあるくらいなので温泉とはセットなんですかね。まぁ、そんなことを考えながら、イオンモールへ。親父の好きだったローストビーフを売っていたのでお土産に購入して帰る。12月、一年で一番日の短い冬至の日が近づいてきて、どんよりした天気が続く今日この頃だ。

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2018年12月01日

辻堂から光風台までの駆け付けについて考えてみた

今日は三七日の法要の日。今週は辻堂なので、法要を母におまかせする形となった。
さて、辻堂から大阪への緊急時のかけつけがどれくらいで行けるのかというのを考えてみた。というのも父がいつ危篤になるかわからなかったので、事前に検索しておいたのだが、実際には呼ばれてから臨終までの期間があまりにも短すぎて間に合わなかったから意味はなかったのだが。。。
まず、昼間の時間帯。これは新幹線を利用するのが一番早い。便利なのは小田原経由なのだが、本数が2時間に一本、かつひかりなので、のぞみにはかなわないということで速さでは候補から除外される。新横浜まで戻ってというのが最速となって、新大阪までであれば2時間56分となる。まぁ、3時間弱。ここからタクシーで病院まで飛ばしたとして3時間半程度か。駅までの徒歩と旅立ちの準備を含めると4時間強といったところが妥当な線だ。このルートは、始発が5時18分で、始発だけは小田原経由が一番早い。最終が20時49分となる。旅立ちの準備と辻堂までの徒歩を考えると、最終は20時過ぎまでの呼び出しまでなら対応可能ということだ。では、それが過ぎたあと、朝の5時前まではどうするかという話だが、その場合はタクシーを考えていた。タクシーで辻堂から駆け付けた場合の金額はネットで調べると約174,160円とあった。深夜料金は含まれているが高速代は含まれていないとのこと。妥当な金額なのだろうか。ただ、所要時間が5時間41分とある。朝の3時を過ぎると到着時間が8時41分となることを考慮すると朝一の新幹線+タクシーが早いという結論にもなっていた。いずれせによ、今回の父の場合は、15時に呼び出されて、18時過ぎの臨終では新幹線を駆使しても間に合わない。難しいことですわなぁ。。

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2018年11月29日

仲間からのありがたいカウンセリング

五反田に戻っていつもの生活を取り戻して3日間。いつもの生活とまではいいがたい。事業計画をやらなければいけないというタスクもあって少し負荷もあがりつつ、火曜日の夜にはベンダーさんで懇意にしている方から飲みのお誘い。このまえ、ガス抜きをしてあげようと、父が亡くなる前に声かけをしたのを、実行しましょうという話になったのだ。向こうも気をつかってくれて、逆にガス抜きをしないといけないと気を遣ってくれたようでした。その方もお父さんを3年前になくされていて大変だったという話などで短い間でしたが、久々に一人以外でお酒を飲む機会がありました。そして、昨日は同じく会社で懇意にしてる鉄仲間の方がおなくじ、食事でもいっしょにということで、昼食を食べながらここ二週間の出来事をカウンセリングしてくれました。こういった仲間がいるということは実にありがたいことで感謝しなければいけないですね。で、こういう話になるとどう答えるのが一番いいのかというのが悩ましいところだ。事実としては病気になって1ヶ月とちょっと、急な話で亡くなったということにはなるのだが、その事実を淡々と伝えると、もっと自分としてもできたことがあったのではなかろうかと自責の念にかられるし、かといっていろいろと手は尽くしたがという話にするといいわけがましくも思えたりする。自分としては両方の気持ちがあるので、どちらも正直に話すというのがいいのかなとも思う。まぁ、話す相手との関係性に依存するというものでしょうね。いずれにせよ、自身が受けたありがたいカウンセリングは今後、同じ境遇にあった人たちに僕自身がお返ししてあげるのが大切ってことでしょうね。

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2018年11月27日

父の好物(その他編)

父の好物、食べ物の次は、その他編。とにかくテレビはよく見ていた。晩年は寝たきりになることが多かったのでテレビを見ることくらいしか楽しみがなかったというのが正解かもしれない。夜中に起きていることも多かったのでなによりも朝刊が届くのを楽しみにして、バイクの音が聞こえると新聞受けを見に行き、とってきた新聞のテレビ欄をチェック。見るテレビ番組蛍光ペンで印をつけていく。夜の阪神戦があるときはチェック。たいていNHKを見ることが多く、家族に乾杯、NHKのどじまん、生活笑百科などが好きだった。それ以外では、サンデーモーニングや、新婚さんいらっしゃい、アタック25など、一般的にサラリーマンのおじさん世代が好きな番組はたいてい見ていたと思う。地理や、動物が好きだったこともあり、NHKでそいういったドキュメンタリーがあったりするとよく見ていたり、時代劇も結構好きだったりする。あと歌が好きで、昔はナツメロをよく聞いていた。私はそれを聞いていたので、当時の生歌は知らないが、青い山脈だったり、リンゴの歌?だったりと父が20代〜40代までの働き盛りであったであろうころによく聞いていた歌を知っていたりする。あとは普通に演歌が好きだったり、一番のお気に入りは千の風になってだそうだ。告別式のBGMに使わせてもらった。また、映画では、チャップリンが好きだった。モダンタイムス、街の灯り?独裁者など、28年前に胃ガンで手術する事になったときに、気分を落ち着けてもらおうと、チャップリンのDVD集とポータブルプレイヤーをプレゼントした記憶がある。おそらく、昭和を生き抜き、平成も最後の1年前まで生きた、一般的なサラリーマンの好みと合致するのではなかろうか。父が会社をやめるとき、生き甲斐がなくなってどうするのだろうかと少し心配にはなったが、それなりに楽しみを見つけていたのかもしれない。

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2018年11月25日

父の好物(食べ物)

父親との思い出を語る時に、やはり本人の好きだったものを話しないわけにはいかない。父の好きだったものとして真っ先に思いつくのは母の作った鳥のからあげ。特に皮の部分が大好きであのコラーゲンのあぶらっぽいところがよかったのだろう。私もそれにつられて食べるうちにやはり皮の部分は大好きになった。ただ、子供ながらに父の好きなものをいっぱい食べるわけにもいかず、遠慮してあまったものだけ食べていたのが記憶にある。あと、鰻も好きだった。食道ガンをわずらってから、すっかり食の好みが変わってしまい、鰻もあまり食べなくなったのだが、ふるさと納税で何度か申し込んであげると、喜んで食べていたと聞いている。ただ、最後に申し込んだ鰻は、母が入院して、寝たきりの父を一人家におくわけにもいかず、施設にあずけている際に配達されるようになってしまい、結局受け取りをお隣にお願いして、そのままたべきれず差し上げたという経緯がある。あぁ、もう鰻とかを送るのもタイミングが難しいなぁと思った時だった。14年前の食道ガン移行は、流動的なものが好きだった。玉子どうふやアイスクリームなどはつるんとのどごし柔らかで食べやすいというのがあったのだろう。玉子どうふは棺の中に入れることができた。あと、果物ではすいかが好きだった。お葬式の際に話題になったのが、奈良の大和郡山のすいかが有名で、おいしいとのこと。夏のお供えには買ってあげたいところだ。あとはハムサンドやおにぎり、かっぱえびせんに、醤油煎餅など、いろいろと思い浮かぶ。誤嚥性肺炎を煩って1ヶ月、ほぼ食事ができず、つらい思いをしたことだろう。昔好きだったもの、最近好きなもの、いろいろとお供えしてあげたいと思う今日このごろだ。

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2018年11月24日

二七日終わる。父に連れられ明石に京都に。

父の二七日が無事に終了。お寺さんがうちの場所がわからずに、1時間ほど後ろ倒しになったというハプニングもあったけど、四十九日の日時もきまってほっと一安心。来週からの七日ごとの法要には毎週はこれないですが、可能な限りは来たいなと思います。実に二週間、神奈川の家をあけて、仕事も在宅勤務とさせてもらっていろいろな方々にご迷惑をおかけしたので、来週から徐々にですが、挽回していかないといけませんわ。 さて、そんな父との思い出ですが、やはり一番父と接したのは保育園、幼稚園の時だったような気がします。母といっしょになってからは、母親と話すことが多くなり、父と直接話をするというのも格段に減ったからですかね。今から思えばもっといろんなことを教えてもらっておけばよかったなぁという後悔ばかりです。そんな父との思い出で、いつも話になっていたのが、父親に連れられて姫路まで山陽電車に乗って遊びに行くのに、あまりに距離が長くていやになって明石かどこかで折り返したという話。父にとってはよっぽど印象に残った出来事だったのでしょう。父から聞く話ではありましたが、私は記憶がないのです。また、京都に路面電車が走っていたころ、今度は逆にもっともっと電車に乗りたかったのに父がもう帰るというので、帰りたくないとだだをこねて電柱にしがみついた出来事。バックに路面電車が写っていて、電柱にしがみついている私の写真が今でも記憶に残っています。でも私自身のこの出来事自体への記憶がない。父親がいつも話をするので記憶に残っているというだけなのです。とにかく、小さな私を抱えて、男手ひとつで育てていかなければいけないと覚悟を決めた父は当時、どんな心境だったのか、想像もできないですが、あのとき、世話のかかる私の面倒を見てくれたおかげで今の私があります。本当にありがとう。

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2018年11月23日

父との思いでの場所 滝山萩原台の家

父が亡くなってから二七日を明日に控え、2週間あまりの期間を実家にて過ごす。ありがたいことに会社は今週3日間を在宅勤務とさせてもらい、1日を年休にして、本日の祝日とあわせて忌引きの5日間と計10日間を乗り切ることができた。この間にいろいろと買い物をすませて、母が一人で暮らして行くにあたって不自由のないようにといろいろと手続きを。なんとかなりそうな感じだ。そんなわけで、今日は一日休日として、お出かけに。父の住民票を見たときに、前の住所で乗っていた滝山の萩原台の住所。場所は萩原台2丁目XX-XX。私が生まれてから4歳くらいまで住んでいた場所なので、今から45年ほど前の話。滝山駅を下車して、小さな川沿いを歩き、途中現れる急坂を上る。この急坂はすごい記憶に残っていて未だに忘れられない。白いアスファルトに○のすべりどめが刻印されている急坂によくある形だ。これを2つ乗り越えてたどり着くのが昔の我が家。現代のものに立て替えられてないのでひょっとすると45年前のままなのかもしれない。5年ほどまえに仕事でこのちかくのビルにやってきた時にあてずっぽで探したときは見つけられなかったのだが、まさにこれぞ当時の我が家とあまり変わりない姿で安心した。思えば、父は、私と祖母を養うために全力で働いていたのだ。行きは下りだからいいのだろうが、会社を終えて、へとへとで疲れた体でこの急坂を2度も乗り越えて我が家にたどり着く。ほんとご苦労様だったと思う。休日は近所の公園で僕と遊んでくれたのだろう。公園に面影はなかったが、家から歩いてすぐのところに大きな公園もあったので、おそらくここで遊んでいたのだろう。仕事で疲れて本当は寝ていたかっただろうにと思うと、つくづくありがたい話だ。この場所は父のみとの思い出の場所、また今度、ゆっくりと来ようと思った。その後、三国にあるアルゴの湯という日帰り温泉にお出かけ。ひさびさに大きなお風呂に浸かれて、いやされた気分になった。

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2018年11月21日

あのホワイトボードが母を守るチェックリストに変身

父の二七日まで大阪の実家に居ることにしたので丸々二週間、実家での生活。それが終わると、母親がこの家で一人暮らしを続けていくことになる。心配だったので、大阪ガスの見守りサービス的なものは申し込んでいたが、ガスを利用しないことには通知がこないし、いまいち利用価値がない。というわけで、今回は母がケータイでメールを送信できるようにトレーニングすることに。マニュアルがないとできないのと、文字の入力は絶対にできそうにもないので、例文のメールを毎日寝る前に送るというルーチンワークにしている。題名を線香とろうそく消しました、おやすみなさい。という火の用心を注意喚起するタイトルにしているので、まずこれは忘れないだろう。で、冷蔵庫の前にやることリストをホワイトボードに書いてある。そう、このホワイトボードは、父の声が出せなくなったときに、筆談でやりとりをした、形見のようなもの。本当は棺の中に入れて一緒に焼いてもらいたかったが、プラスチックなのでダメといわれたのだ。今では、母を守る一道具となって活躍することになった。戸締まり、ガス、エアコン、線香、換気扇、メールと6つのチェック項目をつけて、完了したらレ点をつけてくというもの。今週頭から練習をかねてやってもらっている。メールの送信はやはりぎこちないところもあるが、なんとか送れるようにはなったようだ。これで、少しは安心。あとはGoogleHomeMiniに話しかけてくれれば、元気かどうかもある程度判断がつきそう。

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2018年11月18日

父が他界しました。

父が他界しました。生前お世話になった方、葬儀に参列いただいた方にはこの場をかりて御礼申し上げます。本当にありがとうございました。さすがにばたばたしていて、一週間ほどこのブログは書けませんでした。というか記録は残しているのですが、それは非公開にさせてもらう予定です。思えば、一週間前の今日、母から父が危ない状態にあると電話をもらってすぐに神奈川から新幹線に飛び乗り、新大阪まで移動。夜間いつ呼び出されても駆けつけられるようにと、新大阪の駅前でレンタカーを借りる手配を新幹線の中でやっていたのですが、名古屋でいよいよ駆けつけてくれという電話を母が受けたとの連絡をもらって、それどころではにということで一旦キャンセル。新大阪からタクシーに乗り、病院に駆けつけたのですが時すでに間に合わず、死に目にはあえないという残念な結果となりました。前の病院から転院して一週間も経たないうちで、来週は再度お見舞いに行こうと思っていた矢先の出来事で、改めて離れて暮らす親を看取ることの難しさを痛感しました。今はまだ、父が亡くなったという実感がないです。離れて暮らしていたので、年数回しか会えなかったですし、実家に居ても、入院していたり、介護施設に居たりと留守にしていたことも多かったので、実家に帰っても会えないことが不思議ではなかったからかもしれません。とはいえ、しばらくすると寂しい気持ちでいっぱいになるのかなぁと考えるとなんとも切ないですね。その反面、母にとっては、自分が家にいるときは父も居るのが当たり前だったので、今は私が実家に居るので、そうでもないのでしょうが、一人で暮らすことになるとその寂しさは相当のものになるでしょう。考えただけでもつらくなります。とはいえ、乗り越えていくしかないことなので、残された親子二人はこれからも前向きに生きて行こうと思います。父には感謝しかないです。これからは天国で見守っていてください。しばらくしたらまた父との思い出などをいろいろと書きたいと思います。

taka7107 at 21:23|PermalinkComments(2)
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